AIにとって“意味”とは何か?──記号論とシンボルグラウンディング問題

「意味」は人間にしかわからないのか?

「リンゴ」という言葉を聞いて、あなたはどんなことを思い浮かべますか?
赤い果実、甘い香り、果樹園、小学校の給食、スティーブ・ジョブズ——。人によって異なるイメージが浮かび、その中に「味覚」や「記憶」、「連想」など複雑な情報が絡み合っているはずです。

では、この「リンゴ」という言葉をAIが理解するとは、どういうことなのでしょうか?
「言葉を知っている」ということと、「その言葉の意味を理解している」ということは、全く別の話です。
この差を本質的に考えるための鍵となるのが、「記号論」と「シンボルグラウンディング問題」です。

AIの「理解」は記号操作でしかない?

現在主流のAIは、大量のテキストデータを学習し、言葉同士の統計的な関係性をもとに応答を生成しています。
これは「記号操作(シンボル・マニピュレーション)」とも呼ばれ、与えられた記号(単語や文)にルールを適用して、別の記号を出力するプロセスです。

たとえば、「猫が魚を食べた」という文に対し、「魚は猫に食べられた」と変換することは、単に文法ルールに従って記号を入れ替えるだけで実行できます。
ここに「猫とは何か」「魚の匂いや動きとは何か」といった感覚的・体験的な情報は存在していません。

つまり、AIは意味を理解しているように見えて、実際は理解していないのではないか?
これが、多くの哲学者や認知科学者が抱いている根本的な疑問です。

シンボルグラウンディング問題とは?

この疑問を鋭く突きつけたのが、「シンボルグラウンディング問題(symbol grounding problem)」という概念です。

1990年にスティーブン・ハルナッド(Stevan Harnad)によって提起されたこの問題は、次のような問いかけから始まります:

「AIが扱う記号(言葉や数式など)には、それ自体に意味はない。ただの記号にすぎない。それでは、その記号に“意味”を与えるには、どうすればいいのか?」

ハルナッドは、人間が言葉を理解できるのは、「身体を通じて世界を経験しているからだ」と考えました。
たとえば「熱い」という言葉は、火傷しそうな温度を手で触れて感じた経験と結びついているのです。

一方でAIは、身体も感覚も持たず、世界と直接的な接点を持ちません。
そのため、AIが使う「熱い」という言葉は、単なる文字列のパターンでしかなく、“グラウンディング(基礎づけ)されていない”というわけです。

このように、「意味を持つ」とは、単に言葉の定義を別の言葉で説明できることではなく、実体験や環境との結びつきが不可欠であるというのがシンボルグラウンディング問題の本質です。

なぜこの問題がAIにとって重要なのか?

ChatGPTをはじめとする大規模言語モデル(LLM)は、近年飛躍的に性能を向上させています。
一見すると人間のように会話し、思考し、文章を書くかのように見えますが、それはあくまでも「意味を持ったふり(模倣)」に過ぎないのではないか?
これが、AI倫理やAI信頼性の議論でたびたび問題視される点です。

特に、次のような応用領域では、“意味の理解”の欠如が致命的になる可能性があります:

  • 医療診断AI:患者の痛みや表情の「ニュアンス」を理解せず、テキストベースのデータだけで判断を下す危険
  • 法律文書の解釈AI:文言に込められた人間の「意図」や「文脈の空気」を理解できない
  • 介護・対話ロボット:表面的な「ありがとう」のやり取りだけで、感情や共感をともなわない対応になる

どれも、単なる記号の操作ではカバーしきれない「意味の理解」が求められる場面です。

解決策は「身体性」?──エンボディメントAIの挑戦

こうした課題に対するアプローチとして近年注目されているのが、「身体性(Embodiment)」をもったAIの開発です。

エンボディメントとは、AIがセンサーやアクチュエーター(手足)を持ち、現実世界に“実在する身体”として存在することを指します。
これにより、AIは「実際にリンゴを触り」「匂いを嗅ぎ」「口に入れて甘さを感じる」ことが可能になります(厳密にはセンサーデータの取得と解析ですが)。

代表的な研究例としては、以下のような取り組みがあります:

  • iCub(アイカブ):ヒト型ロボットで、目・耳・手を持ち、実際にモノに触れて学習する
  • DeepMindの強化学習エージェント:仮想空間上で「報酬」を得るために探索・試行錯誤しながら学ぶ

これらは、「記号」だけではなく、「環境との相互作用」を通して「意味」を学ぼうとする試みです。

「意味」を完全に理解するAIは生まれるか?

では、最終的にAIは「意味」を“人間のように”理解できるようになるのでしょうか?

ここには、2つの立場が存在します:

  • 強いAI派:「十分に高度なセンサーと知覚能力を持てば、人間と同じように“意味”を理解できるようになる」
  • 弱いAI派(または哲学的AI懐疑派):「AIは意味を“模倣”することはできても、本質的な理解には到達しない」

この論争に決着はまだついていません。
ただ一つ確かなのは、現在のAIはまだ「記号の森の中」で迷っており、その外側にある「現実」とどう接続するかが次のブレイクスルーの鍵だということです。

意味とは「体験に結びついた記号」

人間が言葉に意味を見出すのは、それが過去の経験・感覚・文脈と繋がっているからです。
逆に言えば、AIが本当に意味を理解したいのであれば、「データの海」だけでなく、「現実の風」に触れなければならないのかもしれません。

記号論とシンボルグラウンディング問題は、単なる哲学的な問いにとどまらず、AI技術の進化の本質を突く問題です。

AIに「意味」は宿るのか。
この問いの答えは、私たち人間自身が「意味とは何か」を定義し直すことから始まるのかもしれません。