AIが俳句を詠んだら、人は共感できるか?

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

松尾芭蕉のこの一句に、どこか心を動かされた経験があるだろうか。情景描写の精緻さ、無音の中に響く一滴の音、それが映す侘び寂びの世界。まるで絵画のように静止した時間。その一瞬を、たった17音で切り取るのが「俳句」である。

では、この「俳句」を、AIが詠んだとしたら——私たちは果たして“共感”できるのだろうか?

俳句というフォーマットの持つ特性

俳句は、世界最短の詩と言われる。五・七・五という定型に、季語(きご)と切れ字(きれじ)を添えるだけで、日本人の心象風景を描き出すことができる。短いからこそ余白が生まれ、読む者の想像力が補完する。その曖昧さこそが、俳句の美しさであり、日本語の文化でもある。

ここで、ひとつの問いが立ち上がる。「AIはその“曖昧さ”を詠めるのか?」

AIが俳句を「生成」することは、すでに可能

近年、自然言語処理(Natural Language Processing:NLP)の進化により、俳句や短歌といった短詩をAIが自動生成するプロジェクトが多数登場している。たとえば以下のような事例だ。

  • AI一茶くん:一茶記念館が開発したAI俳人。18000句を学習し、季語を含んだ俳句を自動生成する。
  • AI Haiku Generator:英語圏のAI俳句ボット。Twitter上で日々句を詠む。
  • GoogleのPoemPortraits:一語入力するとAIが詩を生成するプロジェクト。

これらのAIは、俳句の形式を守りながら、過去の句やコーパス(膨大な言語データ)から学び、句を出力する。たとえばこういう句が詠まれる:

「春霞 古い路地に 猫ひとつ」

ぱっと見れば、十分に“俳句らしい”。むしろ、初心者の人が詠む句より、形式や季語の整合性がしっかりしている。けれど、そこに「なにかが足りない」と感じる読者も少なくないだろう。

共感とは何か——AI俳句に足りないもの

そもそも、共感とはどのような心理プロセスだろうか。

心理学者のカール・ロジャースは「共感とは、相手の内的世界を自分のものとして感じ取る能力」と定義した。つまり、読んだ句を通して、「これは私の経験に似ている」「この感情わかる」と思えることが共感の本質である。

しかし、AIは「経験」や「感情」を持たない(現時点では)。そのため、AIの詠む俳句には、“個人的な記憶”や“生身の心の揺れ”がない。これは、人間が句を詠むときの根本的な動機、「表現したい」という衝動が欠落しているとも言える。

AIの句は「意味的には正しい」が、「存在としてリアルではない」。

たとえば、次の二句を比べてみてほしい。

AI句:「初霜や 駅のベンチに 朝の影」
人間句:「初霜や 母の買い物 待つ朝日」

前者は美しく整っている。だが後者には、「母を待つ」という具体的な記憶が透けて見える。そこに情景と感情のグラデーションがあり、私たちはそこに“寄り添う”ことができる。

それでも、AI俳句が共感を得る未来はあるのか?

ここで逆説的な視点を持ってみたい。AIには個人的記憶がない。だが、私たちの“記憶”や“感情”を模倣することはできる。

たとえばAIが、SNS上の投稿、日記、詩、エッセイなどを学習し、それぞれの文章が“どんな気分で書かれたか”を推定できるようになれば、感情的文体の再現が可能となる。

さらに、以下のようなAI俳句生成の方向性が模索されている:

  • 共感データベースとの連携
    「どんな言葉に人が反応しやすいか」「どんな季語に感情が宿りやすいか」を学習した俳句生成AIは、感情に訴えかける句を生成する。
  • 擬似的“体験”のシミュレーション
    AIが「母を待つ子供」や「失恋後の夕暮れ」をロールプレイ的にシミュレートし、その立場で句を詠むとどうなるか、という試み。
  • 対話型俳句生成
    ユーザーとの会話の流れから俳句を詠む。つまり、ユーザーが「雨の日って寂しくなる」と言ったら、AIがそれをもとに、

    「梅雨曇り 止まない気持ち 傘の音」

    と返してくる。ここには対話的な共感が芽生えうる。

共感は“錯覚”でもよいのか?——人間の側の問い

ここで面白い事実をひとつ。

私たちは「作者が誰であるか」によって、詩や句の受け取り方を変える傾向がある。これは「作者効果」と呼ばれ、心理学的にも裏付けがある。

つまり、まったく同じ句でも、それが「病床で書かれたもの」と聞けば、私たちはそこにドラマや感情を見出す。

ならば、もし「これは人間が詠んだ俳句」と聞かされてAI句を読めば、私たちは“共感してしまう”可能性すらある。

このように考えると、共感とは「作者の心を読む」ことというより、「自分の感情を投影する」行為なのではないか?という、認知的な構造が浮き彫りになる。

AIが詠んだ句に涙することも、笑うことも、それは“私たちの中にある感情”が反応しているからに他ならない。

AI俳句の可能性——新しい感性の刺激装置

ここまで読んで、「AI俳句には限界がある」と感じた方もいるかもしれない。

だが見方を変えれば、AI俳句は「人間にはない視点」を提供してくれる可能性を秘めている。

たとえば、AIが生成した以下のような句を見てほしい。

「電波濃く 虫の声消ゆ 夜の街」

この句には、デジタルと自然が衝突する感覚がある。人間ではなかなか想起できない組み合わせかもしれないが、AIはこのような“論理と感性のミックス”を自在に生成できる。

それは時に違和感を生むが、違和感は「新しい価値の芽」である。現代詩や前衛俳句、あるいはポストヒューマン的な詩世界において、AIの視点はむしろ歓迎されるべきものかもしれない。

結論:AIが詠む俳句は「共感」を問う鏡である

人間が俳句に共感するとき、そこにあるのは「誰かの感情に寄り添う」ことであり、同時に「自分自身の感情の再確認」でもある。

AIがそれを詠んだとき、私たちはその事実にたじろぎながらも、時には「なんだか分かる気がする」と感じる。

その時点で、共感は生まれている。

つまり、AIが詠んだ俳句に共感できるか?という問いは、「人間が、どれだけ自分の感情を映す準備ができているか?」という問いでもあるのだ。