AIが「生き物」を設計する時──進化のシミュレーションとその危うさ
はじめに:「生命を設計する」という発想の異常さ
AIの進化が人間社会にさまざまな恩恵と問いをもたらす中で、静かに、しかし確実に進行している領域がある。それは、「AIが生命をデザインする」というテーマだ。
生き物をつくる──。かつては神の領域とされたこの行為が、いまやシミュレーション技術とアルゴリズムの進化によって、現実味を帯びはじめている。だが、それは決して単なる「技術の進歩」ではない。そこには倫理、哲学、そして人間そのものの存在を問う深い問題が横たわっている。
「進化」を模倣する。
「最適な生命体」を設計する。
「自然」を超えて、より効率的で強靭な生命をAIが導き出す。
こうした未来は、どこかSF的で魅力的に映るかもしれない。だがその裏には、思考停止的な楽観と、見落とされがちな危うさが隠れているのだ。
進化のシミュレーション:自然の「偶然」をAIが演算する
現代のAIが取り組んでいる“生命設計”のひとつに「進化的アルゴリズム(Evolutionary Algorithm)」というものがある。
これは、ダーウィンの進化論を模したアルゴリズムで、ランダムな“突然変異”と“適応”を繰り返しながら、最も高性能な個体を選び取っていくという手法だ。
実際に、この手法はすでにロボット設計や飛行機の翼形状、化学構造の最適化など、無数の分野で応用されており、成果を上げている。
例えば、「エボルバブル・ボディ(Evolvable Body)」と呼ばれるロボット研究では、AIがさまざまなパーツの組み合わせを進化させることで、移動効率や環境適応性を最大化するボディ構造を導き出すことが可能になっている。
問題は、それを「生き物」に応用した瞬間から、単なる構造最適化の話ではなくなるという点だ。
進化とは、本来「意図のない」プロセスである。偶然が重なり、生存に有利な形質が残り続けた結果として、現在の多様な生物が存在している。
だが、AIの進化シミュレーションは違う。「目的」があるのだ。
「最も強い個体」「最も適応した構造」「最も効率のよい生物」──。
それは、果たして進化なのか? それとも“設計”なのか?
「最適化された生命」は、果たして“生きている”のか?
ここで本質的な疑問が立ち上がる。
AIが設計した生命は、果たして“生きている”と言えるのか?
たとえば、AIが仮想空間で独自に進化させた「デジタル生命体」が、複雑な振る舞いを見せ、自律行動し、自己増殖さえ行ったとする。
これを「生命」と呼んでいいのか?
この問いは生物学的な定義だけでは語りきれない。問題は哲学的であり、認知論的でもある。私たちはなぜ、ある存在を「生きている」と感じるのか? 呼吸しているから? 心拍があるから? それとも、“予測不能な振る舞い”をするから?
実は、AIが生み出す「生命的存在」の最大の問題点は、“予測できすぎる”ことにある。
あくまで目的に沿って進化させられた生命は、その目的から逸脱しない。逸脱することを「非効率」として淘汰されるように設計されている。
それは、生き物というより、「従順な製品」である。
生命を「最適化」してはいけない理由
ここで注意しなければならないのは、「最適化された生命」の危うさだ。
進化とは、効率の追求ではない。むしろ、非効率で不完全であるがゆえに多様性が生まれ、環境への柔軟性を持つ。
AIが行う生命設計は、どうしても“効率”という軸に傾く。速く、強く、少ないリソースで生存できるように。
しかしその結果、「不必要に見える部分」がどんどん削ぎ落とされていく。
たとえば、無駄に見える羽毛。非効率な動き。意味不明な習性。
だが、それらが自然界の“冗長性”や“美しさ”を支えていたことは言うまでもない。
AIが“要らない”と判断した部分は、本当に要らないのか?
それは、今の私たちが“分かっていないだけ”ではないのか?
AIによる進化のシミュレーションは、科学的ではあっても“謙虚さ”に欠ける可能性がある。
「設計された進化」は、新たな支配構造を生むか?
さらに、ここにはもうひとつの不気味な側面がある。
もし、AIが生物の設計を担うようになったとしたら、それは「誰が」「何の目的で」「どんな倫理で」進めるのか、という新たな支配構造の問題を生む。
たとえば軍事目的に適応した生物。
環境制御のために作られた人工生態系。
農業や医療に最適化された“人工生物”──。
それらが普及した時点で、「自然に生まれた生命体」は“旧式”と見なされる可能性すらある。
そして、AIによって設計された存在は、設計者の「望む性質」しか持たないため、反逆や反抗、逸脱が許されない存在になる。
それは、まるでディストピア的な生物社会だ。
終わりなき倫理の迷路へ
進化のシミュレーションは、科学的なロマンを感じさせる。
だが、そのロマンの背後には、人間が「創造主」になることへの陶酔がある。
「この世界に、もう一度“生命の起源”を作り直せるかもしれない。」
そんな野望が、AIという万能な道具を通して、静かに膨らんでいく。
だが忘れてはならない。
自然界が何十億年かけて行ってきた“非効率で混沌とした進化”は、私たちがまだ理解しきれていないメカニズムの宝庫だ。
AIによって短縮され、効率化され、“美しく整えられた”進化は、果たしてその本質を写し取ることができるのだろうか?
それとも──私たちは、「似て非なる別の何か」を作り上げてしまうのだろうか?
結論:AIと生命を結ぶ“第三の知性”を想像する
最終的に問うべきは、「AIが生命を設計できるか」ではなく、「人間とAIが、どのような生命観を共有するべきか」ではないか。
AIは設計する。人間は感じる。
その間に生まれる新しい知性とは何か。
進化のシミュレーションは、その第一歩にすぎない。
だが、その第一歩は、人類にとって“生物とは何か”という根源的な問いを突きつけることになるだろう。
そしてその問いこそが、私たちが「生きている」という意味を、あらためて見つめ直すきっかけになるのかもしれない。